こんにちは、シェイク吉田です。
先日、京都での研修を終え、東京へ向かう新幹線に乗っていました。
私は1人、ノートを広げて、その日の研修を振り返っていました。ふと隣の会話が耳に入ってきます。同行していた先輩社員と後輩社員が、後輩の営業課題について、ずっと話し込んでいるのです。
やがて、後輩が自分の課題に気づいたようでした。
「ロールプレイをお願いします」
走る車内で、そのまま営業シーンの練習が始まりました。
貪欲に成長しようとする後輩の姿。その成長に、じっくりと向き合う先輩の姿。どちらの姿にも、心が動きました。
そして同時に、こんなことを考えていました。
――この時間は、どんな指標にも表れないな、と。
何をもって「成長した」と言うのか
人材育成を生業にしていると、「成長」という言葉を毎日のように使います。
しかし、「成長した」とは、何をもって言えるのでしょうか。
知識が増えた。スキルが身についた。数字が伸びた。
これらは、わかりやすい成長です。研修の前後で測ることも、他者と比べることもできます。仮に「測れる成長」と呼んでみます。
一方で、私が「この人は本当に変わったな」と感じる瞬間は、少し違うところにあります。
「人に感謝できるようになった」
「人の話を、受け入れられるようになった」
スキルが上がったわけでも、数字が伸びたわけでもない。一見、地味な変化に見えるかもしれません。
けれど、感謝できるようになるとは、周囲が自分に与えてくれているものが見えるようになったということです。人の話を受け入れられるようになるとは、自分の正しさを手放す余白ができたということです。
どちらも、意識の向かう先が変わっている。
「自分がどう評価されるか」から、「この人やこのチームのために、自分に何ができるか」へ。
こういう変化をした人は、本当に会社や仲間のことを考えて行動し始めます。
興味深いのは、その後です。
意識の向かう先が変わった人は、結果として、成果も出すようになっていく。周囲を巻き込めるようになり、人が力を貸してくれるようになるからです。
つまり、「測れない成長」は、時間差で「測れる成長」を連れてくる。私は、そう感じています。
その変化は、どこで生まれるのか
では、こうした変化は、どこで生まれるのでしょうか。
私が見てきた限り、こうした成長が起きる会社に共通するのは、粘り強く社員に向き合う人事の方や、人に向き合い続ける上司や先輩の存在です。
人は、そう簡単には変わりません。それでも、諦めずに向き合い続ける人がいる。その存在があって初めて、人はゆっくりと変わっていくのだと思います。
あの新幹線の車内も、同じでした。
先輩は、後輩の課題を指摘して終わりにすることもできたはずです。それでも、後輩が自分で気づくまで、話を聴き続けていました。
人が変わるのは、きっとこういう時間の中でなのだと思います。
計画されたプログラムの中だけではなく、誰かが誰かに本気で向き合っている、その何気ない時間の中で。
合理的な育成への、小さな違和感
一方で、最近はこんな声もよく耳にします。
「即戦力化させたい」
「3ヶ月で成長させたい」
「成長を数値化したい」
その気持ちは、私にもよく理解できます。育成にかけられる時間もコストも限られていますし、投資である以上、成果を説明する責任もあります。
正直に言えば、私自身がその渦中にいます。研修の効果を数値で示すよう求められる立場でもあり、経営者として社内に成果を求める立場でもある。合理性を批判できるような、きれいな立場にはいません。
それでも、どこかで小さな違和感が残るのです。
3ヶ月という区切りも、数値という物差しも、測る側の都合でつくられたものではないか。人が変わっていく速度は、本来もっとばらばらで、不揃いなものではないか、と。
先日ご一緒した人事の方も、同じ思いを抱えておられました。人を大切に育てたい。でも、合理性ばかりが求められる。その狭間で揺れながら、それでも人に向き合おうとされている。
短い時間でしたが、深いところで共感し合えた気がしました。
最後に
誤解のないように言えば、私は、合理的な育成を否定するつもりはありません。限られた時間で成果を出すことも、成長を可視化しようとすることも、大切な努力です。
ただ、育成とは、それだけではない。
測れるものだけを見ていると、測れるものしか育たなくなる。そして、本当にその人を変えていくものは、たいてい、測れないほうにあるように思います。
あの日、移動時間という誰にも管理されていない時間の中で、成長したい人と、その成長に向き合う人がいました。
ああいう時間が自然に生まれる組織でありたい。そんな文化を、これからも大切にしていきたいと思います。
皆さんの組織では、人が本当に変わる瞬間は、どのように生まれているでしょうか。










